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11年8月24日(水)

福島支援ボランティア〔5〕被災者支援、これからも!2011

 福島のみなさんから、あふれる怒りや悲しみが吐露され、受けとめ、こたえようとした4日間。

 「私ら1人ひとりの声をこうやって聴いてくれるのは共産党だね」「原発にずっと反対してきたのは共産党だ。がんばってください!」

 …この活動のなかで寄せられた、日本共産党への大きな期待にも、しっかりこたえなければ!と痛感しました。

 松村えみこ相馬市議の名刺にあった「一人で悩まないで、相談してね」との呼びかけ。自らも被災しながら、党議員や党支部・党員のみなさんが住民に寄りそって奮闘しておられることに、本当に頭が下がります。

*      *

 被災者のみなさんから私たちが元気をもらった場面もありました。

 宿泊した民宿「ビジネスホテル六角」は福島原発から20キロの「通行禁止」の検問(写真右)前。原発の“爆発音”がこの辺りまで聞こえたといいます。

 そんな場所で1人がんばっているオヤジさん(写真上)は、「東電は本当にけしからん。放射能は目に見えないからイヤだよね。でも、ここが復興の足がかりになればと思ってるから、閉めることはできないよ」と言います。その言葉どおり、京都や全国からの支援物資や寄せ書きが集まっていました。

 …放射能や津波に負けないで、ふるさとの復興を切望する被災地のみなさん。その願いにこたえ、心のこもった支援活動を、今後とも継続してくり広げていかなければ、と思います。

 ありがとう。福島のみなさん。そして、これからもよろしく!

 

 被災地での活動を終え、今日は磐梯山の温泉で疲れを癒し、京都へのバスに乗り込みました。

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11年8月23日(火)

福島支援ボランティア〔4〕新地町のお母さんと子どもたち2011

 4日目は、相馬市からさらに北に位置する新地町で、訪問・要望の聞き取りを行ないました。

 …ここは宮城県に接し、福島県内でも津波被害の最も大きかった地域。新興住宅地などで、若いお母さんとたくさん話ができました。

 「18才の息子が宮城県の教習所に通っていたけれどバスごと津波にさらわれました。この夏が初盆でした」と、玄関口で涙を流すお母さん。

 「家は流されたけど、家族みんなが助かったのは不幸中の幸いです。実家に避難しているけれど、『津波』という言葉がニュースで流れるたびに、子どもがみんなぎょっとする」

 「いまも余震がくると小学生の子どもがパニックになる。学校カウンセラーや学童保育の体制充実をしてほしい」

 「放射線が不安。0歳の子どものミルクの水は、全部ミネラルウォーターを買っている」

 「家を新築したばかりだけど、放射能のことを考えると、子どもと一緒にこのまま住見続けられるのか不安」 などなど。

 …福島原発は50キロの先。けれど放射能への不安は本当に大きい!そして大津波、大地震の傷あとは子どもたち、家族みんなに深く、いたたまれません。

 いろんな具体的な要望、そして原発撤退署名、住宅の一部損壊助成制度の署名も84筆寄せられました。切実なみなさんの声にこたえるために、がんばりたい!

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11年8月22日(月)

福島支援ボランティア〔3〕相馬市。息をのむ津波被害、余震と放射能への不安2011

 福島ボランティア3日目は、南相馬市の北に位置する相馬市へ。

 午前中、地元支部の方に、津波の大きな被害を受けた海岸地域を案内いただきました。

 …息をのむ光景が目の前に広がります。松川浦、磯辺など数100〜1000戸の集落が呑み込まれた場所では、泥の中に住宅は基礎を残すばかり。押し流された船や壊れたトラックの「墓場」のような光景が延々と続きます。

 

 海岸に近いある小学校では、大地震の後、家族が迎えに来て下校した子どもたちは犠牲になり、学校に残っていた子どもは助かるという「差」が生まれたといいます。「なぜ子どもを返してしまったのか」と苦にした校長先生が、後になって自殺されたという悲しい話を聞きました。

 …多くのいのちが奪われたことをあらためて感じ、言葉になりません。

 港湾や道路の被害も甚大です。撤去されないがれきが散乱したまま、外国船籍のタンカーが津波により船首が折れ曲がってそのまま、という姿にも遭遇しました。

 

 午後は、相馬市内の津波を免れた地域で、住民要望の聞き取りのため訪問。

 18人が9組のチームをつくり、約3時間半、足が棒になるくらい歩きまわり、全体では訪問292軒、対話できたのが149軒、災害保障を求める署名が109筆寄せられました。

 「南相馬市と違って、市長が『放射線の影響は少ない』と言っているので放射能測定が大雑把。細かく正確に測ってほしい」、「屋根が傷んだが瓦が足りず、修理は3年待ち。『半壊』までいかないので私らには何の補償もない」、「津波に自宅兼民宿を流され、失業したうえ借家に引っ越して大変」、「相馬市民は放っておかれている」などの声・声・声。

 地元の村松えみこ市議が災害対策で奮闘していることはよく知られ、「ひとりで悩まないで」と書かれた松村さんの名刺も好評。…11月には延期されている市議選があるそうで、ぜひがんばってほしい!

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 それにしても、余震が毎日続きます。

 宿に戻った昨夜から今朝にかけては「震度3」くらいの揺れが数回。私たちでもドキっとしますし、子どもたちには泣きだす子もいるといいます。さらに、宿泊している民宿は原発からちょうど20キロ地点、さすがに放射能の不安は否めません。

 …ずうっとここに住む、というのは、本当に大変なことだと実感します。

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11年8月21日(日)

福島支援ボランティア〔2〕南相馬市で被災者支援コンサート、聞きとり2011

 福島支援ボランティア2日目。昨日に続き、南相馬市で活動しました。

 午前中は、フォークシンガーの野田淳子さんとともに、避難所になっている原町第一小学校を訪問。

 避難者や地域住民のみなさんに声をかけ、ミニ・コンサートや紙芝居、炊きだしなどを行ないました。

 この避難所には事故当初100人以上がおられたそうですが、災害から半年近く経たいまも、約40人が暮らしておられます。企画の前に、段ボールの間仕切り1軒1軒を訪ねてお話を聞くと、「仮設住宅に申し込んでも、当たらなくてねぇ…」と困っておられる方がほとんど。「父・息子」家族や、お年寄りの夫婦もあり、大変さに驚かされました。

 10時からのコンサートでは、野田さんの歌に合わせてみんなで合唱。紙芝居(←赤阪前京都市議をはじめ伏見の元教員のメンバー、さすがです!)、健康体操(民医連中央病院の看護師さん)、そうめんの「炊き出し」や支援物資も大人気。

 「久しぶりに歌った、笑ったよ。ありがとう」「避難所と地域との交流企画は初めてで、とてもよかった」とみなさんの笑顔。

*        *

  午後は、この地域で地元の荒木ちえこ市議や党支部のみなさんとともに、要望やお困りごとの聞き取りに地域を訪問しました。

 突然の訪問にも「わざわざ京都から!?」と、お茶を出していただいたり、「言いたいこといっぱいあるわよ。原発はいらない!」と涙ながらに長い話になるお宅も…。

 「元の生活を返してほしい。原発のせいで若い人が住めない町になるかと思うとやりきれない」、「原発の爆発の時、10キロの所にいて爆風に驚いて逃げたけれど被曝したと思う。『原発は安全』と政府も東電も言ってきたのに許せない」、「市が、個人住宅の除染は個人でやれと言っているけれどとても無理。被曝することや流した汚染水が心配」、「家族が津波で亡くなったのに『立入禁止区域』内で、まだ遺骨をひきとることもできず、辛い」など切実な声・声・声。

 …この原町区は福島原発から約20〜30キロで、避難した住民が戻ってきつつあるといいますが、まだ4割足らず。空き家が目立ち、家におられるのはほとんどが高齢者ばかりで、これでは日常生活も大変です。

 小学生は「学校ごと疎開」して、子どもの姿はほとんどなし。午前の企画に、たった2人だけ子ども連れで参加されたお母さんが「避難所などあちこち行ったけれど、子どもが騒いで居づらくなり、結局戻ってきました。けれど放射法が心配です」と言っておられました。

 …お年寄りも、若い世帯も、みんながそれぞれ悲しみや辛さを抱えておられ、1人ひとりに寄りそう支援が求められていることを、つよく感じます。

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11年8月20日(土)

福島支援ボランティア〔1〕飯舘村、南相馬市へ2011

 今日から5日間、日本共産党京都府委員会の福島支援「ひまわりボランティア」の一員として、福島県南相馬市に来ています。

 今回の参加者は18人。いちおう「団長」である私が最年少で、みなさん50代〜70代、最高齢72歳という“ベテランパワー”の一行となりました。

 早朝7時、支援物資をつめこんで党京都府委員会事務所を出発したマイクロバスは、北陸道から磐越道を通り、福島県南相馬市へ向かいます。

 途中、あの飯舘村を通過しました。

 高い放射能汚染によって「全村避難」とされ、町並みや「飯舘牛」の看板はきれいなままなのに人々の気配は全くなし。耕されなくなった田んぼには夏草が伸び放題です。

 「町村合併」ではなく「までいライフ(スロー、手づくり、ていねい、などの意)」を掲げて、住民や子ども、環境を大切にする村づくりを掲げてきた飯舘村。

 …そこに50キロの彼方から山を越えてきた原発の放射能雲のせいで、なんと哀しい姿でしょうか。言葉になりません。

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 さて、バスは京都から13時間かけて、福島県南相馬市原町(はらまち)区にある日本共産党ボランティアセンターに到着。京野菜などの支援物資も別便で届きました。ちなみにここは福島第一原発から23キロ地点です。

 ボランティアセンターで、前日から福島入りしていたフォークシンガー・野田淳子さんと合流。「さぁ晩ご飯へ…」とはいっても、ほとんどの店が閉店していて街は真っ暗。そのなかでショッピングセンターにたった1軒だけ「営業中」の焼肉店を見つけて入りました。

 …私たちの団体にお店の方はびっくりした様子。ですが、よくぞ、営業していてくれました。ありがたい〜!

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11年8月18日(木)

テレビ文教常任委員会2011

 今日は、府議会のテレビ文教常任委員会の収録があり、KBSスタジオで「文化の力で未来を拓く」というテーマで討論をしました(8月21日放映)。

 私は、「文化」という言葉が“耕す”からきていることも紹介しつつ、「心を耕し豊かにする文化の営みは、人間らしく生きていくうえで欠かせないもの。国民みんなが文化の『作り手』にも『受け手』にもなれるよう保障するのは国と行政の責任」と述べ、文化予算を増やすべきと主張しました。

 …実は、日本の文化予算というのは全体のわずか0.11%。ちなみにフランスの7分の1、韓国の6分の1です!

 そのうえ民主党政権の「事業仕分け」で予算削減。京都府でも市町村の舞台芸術公演助成制度がなくなり、文化施設の運営費が減らされたり、京都市では、私の母校である京都市立芸術大学が独立行政法人化されるなどしています。

 私は、行政が「口は出すがカネは出さない」のは問題であり、文化予算の増額をすべべきだ、と指摘。

 秋の国民文化祭・京都についても、「祭りが去ったらなにもなし」とならないよう、不況に苦しむ文化団体・芸術家、伝統産業の職人などへの支援をつよめ、「全ての学校に伝統工芸品を送る」事業や「高校生の着物授業を小中学校にも拡大」などの“仕事おこし”も提案させていただきました。

 …府会議員として初のテレビ討論に、ちょっと緊張。といっても、あの「政見放送収録」ほどではありませんが。

★京都府議会テレビ常任委員会はこちら

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11年8月 8日(月)

トステム過労死裁判 中田さんご夫婦を励ます集い2011

 トステム綾部で過労死した中田衛一さん(当時22才)のご両親を励ます集いが、7日、福知山市内で開かれ、党府会議員団を代表して参加しました。

 同社に対して衛一さんのご両親は「息子の過労死を認めよ。損害賠償せよ」と裁判に訴えておられます。ところが京都地裁は、さる5月25日、「原告の請求を退ける」との判決を下したのです。

 ご両親は大阪高裁に控訴。裁判支援の運動は、綾部・福知山のみなさんを軸にした「中田さんの過労死認定を求める会」から、京都市内の若者たちが中心になった「衛一ネット」へと、さらに大きく広がりつつあります。

 集いのリレートークでは、私も5年前から裁判傍聴や集会・パレード(写真は09年10月→)など一緒にとりくんできたことを振り返りつつ、「衛一くんを過労死させ、その上、400人の労働者をクビにして工場撤退を強行したトステムは許せません!同時に、知事がトステム本社に行かざるを得なくなるなど、みなさんの運動と議会論戦が一歩一歩動かしてきています。巨大企業の『資本の論理』でなく、人間らしく働くことを優先させる世の中へ、運動をひろげて絶対に勝ちましょう!」と呼びかけました。

 いま、大阪高裁に「公正な判決」を求める署名を集めています。ぜひご協力下さい!

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11年8月 6日(土)

脱原発・いのち守る新市長を!中村和雄さん街頭宣伝2011

 来年2月の京都市長選挙に立候補を表明された中村和雄弁護士が、桂駅西口で街頭から訴えられました。

 「東日本大震災で政治のあり方が問われ、また今日は広島原爆の日」と切り出した中村さんは、「原発容認の市政を変え、原発に頼らないエネルギー政策を京都から始めよう」と訴え。

 また、国保料を3年連続値上げするなど「貧困と格差」を拡大し、梅小路公園への水族館建設など市民の声を無視するトップダウンの現市長を批判し、公契約条例、区民協議会で、市民の声が生きるまちづくりを」と力づよく呼びかけられました。

 …前回、951票差で惜敗した中村和雄さんの再びの決意にこたえ、今度こそなんとしても市長に押し上げたいと思います。〜ぜひみなさんのご支援を!

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 今日はまた、樫原学区の防犯夏まつり、大原野安全・安心ネットワーク結成の集いに出席。樫原では暑さもふきとばすような子どもたちの和太鼓や踊りに元気をもらいました。  

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